しばまた語り

帝釈天の御神水(ごしんすい)

柴又帝釈天(経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ))は、寛永6年(1629)、中山法華経寺(千葉県市川市)19世の日忠上人とその弟子題経院日栄上人の2名の僧によって開創。松の根方に霊泉の湧くのを見て、庵を結んだのが縁起という。二天門を入って左手に「御神水」がある。「男はつらいよ」で寅さんが「帝釈天で産湯をつかい」と口上を述べているのは、この「御神水」を指している。

帝釈天の神泉を描いた絵馬(かつしかデジタルアーカイブ)

帝釈天の由来と、申(猿)との縁

長年にわたり行方が知れなかった日蓮自ら刻んだ板本尊。片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文が、もう片面には右手に剣を持った帝釈天像が描かれていた。発見された日が安永8年(1779年)庚申(かのえさる)の日であったことから、60日に一度の庚申の日がご縁日となった。帝釈天参道の入り口(ゑびす家手前)でも石碑の下で猿の石像が来街者を出迎えている。

帝釈天参道の猿の石碑

浅間山噴火と帝釈天

天明3年(1783年)の浅間山の噴火は、既に始まっていた天明の大飢饉を加速させた。飢饉・飢餓とともに疫病も流行し、全国的には92万人余りの人口減を招いたとされる近世最大の天明の大飢饉。江戸川の上流は大洪水となり、多くの水死者が柴又の河畔にも流れ着いた。題経寺の墓地(柴又5丁目)には「浅間山噴火川流溺死(かわながれできし)供養碑」が遺っている。題経寺9世住職の日敬(にちきょう)上人は板本尊を背負い大飢饉であえぐ江戸の街を歩き、人々に拝みを勧めた。すると不思議な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。

浅間山大噴火を描いた「夜分大焼之図」(江戸川河川事務所)

今も残る「宵庚申(よいごうしん)」

こうして江戸を中心に帝釈天信仰が高まり、江戸時代末記に盛んであった「庚申待ち」の信仰と結びついて、「宵庚申」の参詣が盛んになった。
庚申待ちというのは、人間の頭と腹と足には「さんしの虫」がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。そこで、「さんしの虫」が天に登れないようにするため、この夜は人々が集まって神々をまつり、その後、囲炉裏を囲んで寝ずに酒盛りするなどをして夜を明かすというものだった。現在でも夜明かしはないが、庚申の前日の夕方「宵庚申」として地元の商店の方たちが纏を振って、柴又の駅から境内まで練り歩く。

東京下町柴又新聞byシニアコム.jp
柴又亀屋HPより