かなまち語り

徳川家と金町松戸関所、
葛西神社のお酉様

江戸から下総国・常陸国方面へ向かう道に水戸・佐倉道があったが、新宿で佐倉道は曲金(現高砂)から鎌倉へ向かい、水戸道は金町を経て金町松戸関所に至る。金町の関所は水戸道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関所で、関所の施設がある一帯は金町御番所町と呼ばれ、4名の関所番が明治2年まで任にあたった。対岸との間には渡し舟が常備されていたが、将軍が小金原(松戸)に鹿狩りに出かける際には、高瀬船を並べた架設の「船橋」が架けられた。徳川家康は葛西城御成の際に香取宮(葛西神社)に立ち寄り人形芝居の神事を楽しんだと伝えられている。

葛西神社の相殿(あいどの)の大鳥神社(祭神日本武尊(やまとたけるのみこと))は大正の初年、現在の葛飾橋の北(旧松戸金町関所の近く、東金町8丁目)の大向のお社にお酉様として日本武尊が祀られていたのを葛西神社に合祀されたが、その時、近隣の家々で飼われていた鶏が別れを悲しんで一斉に鳴き声を上げたと言う伝説が郷土資料に記載されている。現在も「金町のおとりさま」として親しまれ、毎年11月の酉の日には、境内に熊手の市が立って賑わう。

将軍一行が「船橋」を渡る様子を松戸方面から見た浮世絵(かつしかデジタルアーカイブ)
今年の酉の市の様子

半田稲荷と願人(がんにん)坊主

半田稲荷(東金町4丁目)の創建は永久年間(1113~1117年)といわれる。子供の疱瘡(ほうそう)、麻疹(はしか)、安産祈願の参詣が多く、乳幼児・小児の疱瘡は当時死に至ることも多かったため、江戸市中には多くの講(同じ信仰や目的をもった集団)が出来、江戸から4里(約16km)も離れた金町へ日帰りで詣でた。江戸中期には願人と呼ばれる下級宗教者が「葛西金町半田の稲荷疱瘡も軽い麻疹も軽い…」と節面白く、疱瘡除けのご利益を江戸で宣伝して回り、文化10年(1813年)には、当時人気の三代目坂東三津五郎が願人坊主を歌舞伎舞踊で演じたこともあり、半田稲荷を更に広めた。

4月の例祭には願人坊主も登場

親鸞ゆかりの光増寺(こうぞうじ)と葵の紋

光増寺(東金町6丁目)は鎌倉時代(1222年)に親鸞の弟子法海上人が草庵を結んだのがはじまりと言われている。親鸞は葛西清重の渋江の館(現四ツ木1丁目西光寺付近)に向かう途中で度々この地に立ち寄っていて、「光増寺」の名付け親も親鸞と伝わる。また、水戸道(旧水戸街道)が寺の前を通っていたため、徳川将軍の立拠所となっていたため、寺の門扉には三つ葉葵の徳川家の紋もある。

徳川家ゆかりの金蓮院(こんれんいん)

金蓮院は、永正年間(1504-20)賢秀和尚により創建。旧門末37ヵ寺をもった本寺格の寺院で、天正19年(1591)徳川家から10石の御朱印を拝領しています。境内に葛飾区の文化財の愛染明王石像と樹齢約500年のラカンマキの大樹があります。