えどがわ語り

徳川家康、利根川東遷(とうせん)で江戸への舟運輸送を促進

江戸時代までは、利根川(古利根川)は現在の関宿付近で南下し直接江戸湾へ注いでおり、現在の江戸川下流は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。この利根川を、銚子付近で太平洋へ注いでいた常陸川に繋ぎ利根川の本流とし、太日川と結ぶことで江戸への舟運を可能にし、太日川は江戸川と名を変えた。この「利根川東遷」と呼ばれる壮大な河川事業の目的は治水もあるが、江戸市中への年貢米をはじめとした物資の安定的な輸送ルート確保にあった。徳川家康の江戸への入府間もない文禄三年(1594年)家康の命によりはじまり、承応三年(1654年)までの60年間をかけて事業は完成するが、その後各所で運河等(金町付近では小合溜井(こあいためい)の工事等)の工事・改修は幕末の安政年間まで続き、現在の東京の河川の基となった。

図:利根川東遷事業の変遷

江戸時代主要な交通、流通経路だった江戸川

江戸時代までは舟運が最大の大量輸送手段だった。江戸に入り大阪や江戸には全国から物資が運ばれるようになったが、江戸への航路は大阪からの菱垣廻船(ひがきかいせん)航路と東北からの東回り航路だった。主要な積荷は年貢米で、特に天領の米を江戸に集中させて管理するため、川村瑞賢(ずいけん)など商人の力を借りて東北の米の東回り航路を促進した。この「東回り航路」を可能にしたのが、徳川家康の命じた「利根川東遷事業」だった。この事業により、利根川から江戸川を経由する水運物流の大動脈が完成し、東北の米のみならず、銚子の魚、醤油、干鰯(ほしか)、その他近隣地域の物資も川筋各地の河岸に集荷し、大量に高瀬船で搬入され江戸の繁栄を支えた。

日本列島を一周する廻船航路 -「日本食文化の醤油を知る」HPより

江戸川改修は近代も続き今の姿に

東回り航路には那珂湊ルートや銚子ルート等があり、銚子ルートは東北からの荷を銚子で川船に載せ替えて利根川から江戸川へ入るルートで、金町より下流で新川、小名木川を通り、江戸市中へ入った。この「奥川廻し」とも呼ばれるルートの確立は、商品流通を円滑にし、江戸幕府の財政・経済の支えとなった。明治以降も江戸川の改修は行われ、金町付近でも堤防の改修で葛西神社の社殿が移動するなど、大正3年(1914年)の「江戸川改修事務所」開設から始まり、平成15年(2003年)に江戸川河川事務所に名称が変更されるまで改修工事は続き、現在の河川敷と堤防の景観になるまで更に90年が必要でした。